最近は自殺する人が歳を問わず増えていますね。
こういう事は、あまり取り上げないようにしてきたんですが、あまりにもこういう事が目立つので書いてみました。
別に自殺した人達が、なんで自殺したのかとか、周りで何があったのかなんて、いくら他人の僕が考えても仕方ないというか、どうしようもないと思うんです。
「何故自殺したか」なんて本人にしか分からない事だし、もしかしたら本人にも分からないのかもしれません。
だから「何故」を考えるより、「生きる事」とは何か?「死ぬ事」とは何か?を改めて考えてみようと今日は思います。今から書く事は僕の「生死」の価値観です。
僕は「生きる事」と「死ぬ事」は同じくらい勇気がいると思います。
サー・トマス・ブラウンの著書『医道宗教』のなかに、
「死を軽蔑するのは勇気の行為である。しかし、生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合は、あえて生きることが真の勇気である」という一文があります。
僕はこの言葉に大きな共感を得ます。
時に生きることは死ぬことより苦しく死んだほうがマシだと思うことがあります。
しかし、その逆境の中でも生きていこうとする姿勢は真の勇気だと思います。
時に命を賭けてなにかを守らなければならない時があります。
この時に潔く死ぬ事は、真の勇気だと思います。
この様に僕の中では「生死」は同価値であります。
二つ注意を書いときますが、死ぬ必要もないのに死ぬことは全くの無意味で軽蔑に値する行為です。
二つ目は「死」を美化し、死に恋焦がれるのは、もっとも軽蔑する対象です。
話を元に戻しますが、一般的には「死」は負け、「生」は勝ちという価値観が普通でしょう。
今の医学はこの価値観が元になっていると思います。
しかし、この価値観だと人は負けることしかできない生き物になります。
否、生きとし生ける物全てが負けることしかできなくなります。
それは少し違うと思いませんか?死ぬ事は「敗北」なんでしょうか?言い方を変えます。死ぬ事は「終わり」なんでしょうか?
僕はそうは思わない。
まず、「生死」を勝ち負けで分けること事態に抵抗があります。
どうして「生死」を勝ち負けで分けることができますか?
話を戻します。
生きる物には皆「死」が待っています。ならば「死」は「終わり」ではなく、何かの「始まり」ではないでしょうか?
僕が死んでも世界は残ります。こんな当たり前のことを考えると安心します。「僕が終わっても世界は残り、新たな生命が始まる。」この事を僕は素晴らしいと思います。
限られた命を精一杯生きて、次の命に受け継ぐことは素晴らしと思いませんか?
それは、生きることと同じくらい価値があると僕は思います。
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